クルマで遠足

クルマに乗って、出かける気軽な旅の記録。

Vol.044

マツダレンタカーで行く、晩秋の会津若松

冬を迎える前に、どうしても行きたかった。
東京から郡山までは新幹線。そして磐越西線へ乗り換える。街を抜け、住宅街を抜けると、とうに刈り取られた田んぼが広がる。ひとけがない代わりにシラサギだろうか、いくつか白いシルエットが動いている。列車の走行音と、前に座る女性客の話し声で、車内は静かではない。しかし、窓の向こうはきっと風の音しか聞こえないことが、みてとれる。

名もない丘や雑木林の紅葉が深まった秋と、その向こうに長い冬が待っていることを知らせている。途中、紅葉した大きな山が見える。磐梯山だろうか。昨日の大雨から置いてきぼりになった、ちぎれ黒ずんだ雨雲が山の中腹に漂っている。

目的地の会津若松駅に着いたのは、10時前。乗っていた列車は6両編成から2両編成になり、その先の喜多方まで行くようだが、乗客は誰もいないようだった。
東京からの切符を駅員さんに渡し、初めて福島県に降り立った。駅舎は真っ白な蔵造りのような和風建築で、出入り口前には大きな赤べこ(赤い牛の郷土玩具)が飾られている。一応、駅舎を写真に収め、ここからの移動手段となるマツダレンタカー若松中央店へ行った。
店舗の写真撮影許可をお願いすると、店員さんが赤べこのぬいぐるみを持ってきてくれた。一つ前の型のデミオに載せて一枚撮影。ここから本格的に会津若松観光が始まる。

地図を見ると、街自体は大きくなさそうだ。カーナビに目的地を入力すると3Kmほど。景色を楽しむほどの距離もない。午前中の中途半端な時間だからだろうか。大通りなのに、クルマの数は少なく思えた。

クルマをとめて、上り坂の参道を歩くと胸が高鳴った。電柱に「さざえ堂」と看板が付いている。この四文字が、とてもリアルに感じる。
雑誌で見たのが、さざえ堂(旧正宗寺三匝堂)を知ったきっかけだった。江戸時代に造られた観音信仰に応えるための建物。それも大切だが、何よりも気になる、興奮させられるのが二重らせんと言う世界で唯一の構造だ。こう書いても分かりにくいが、イメージとしてはヒトのDNAの模式図を思い出してもらうと良いかもしれない。二つのらせんが途中交わることなく頂上まで伸びる。最終的に頂上で交わり、そこからまた違うらせんを降りると出口は入口とは別の場所になる。摩訶不思議。仏教、建築にさほど興味を持っていなくても、気にならないだろうか。

真っ赤な鳥居をくぐると、普段なら十分に感動しそうなせせらぎが境内に流れている。雪解け水のような清らかさだ。しかし、パスする。右手の方を見上げると、30ほどの石段の向こうにさざえ堂が姿を見せてくれた。湿り気を持った黄色い落ち葉が降り積もった階段を上り、近づいていく。外観からして、ゆがんでいる。地面と平行してそれぞれの階が建てられていれば、外から見える格子窓も真っすぐ地面に直角に向かっているはずだ。しかし、らせんに沿っているため、斜めになっている。マジンガーZの口のようだ。案内板によると、高さは16.5m。江戸時代だった1796年に建てられたものとしては、かなりの大きさだ。

入口の龍の彫刻も手が込んで、かなりの迫力。そして中にはさざえ堂を建てた僧侶の木像が鎮座している。軽く手を合わせ、いよいよ中のらせんを上っていく。ゆるやかなすべり台のようなスロープが、右手の方に向かって伸びていく。途中ところどころ、網のかかった小部屋には、もとは観音像が安置してあったのだろう。ここ、さざえ堂は三十三観音をまつり、上から下までぐるりと巡れば三十三のお札巡りは終了という仕組みになっていた観音堂なのだ。

格子窓から、外の紅葉を眺める。らせんを上がっていくとその分、木々が眼下に降りていく。下の方から、子供たちの歓声が聞こえたかと思うと、ドタッドタとあっという間に僕の脇を走り抜けていった。もったいない。こちらは一歩一歩踏みして歩く。少し、ミシっと音がする。慌ててはいけない。エベレストの頂上を間近にした登山家はこんな気分だろうか…。
本当にゆっくりと歩いたのだが、ほどなく頂点へたどり着いた。天井には、無数の千社札が貼られていた。古いものだろう。すでに、白いバックの部分が剥げ落ちて、名前の墨文字しか残っていないものもある。らせんの頂点と千社札が作る異空間は、小宇宙のようだ。さざえ堂のクライマックスは、ここにあると実感した。


このさざえ堂がある飯盛山は、明治政府と幕府軍が戦った戊辰戦争の中で生まれた悲劇、白虎隊自刃の地でもあり、彼ら隊士の墓もある。モミジや銀杏が墓碑の傍らで色づいている。向こうで小学生がガイドさんの話を真剣な表情で聞いている。僕も隅で話を聞かせてもらった。白虎隊の隊士は、数え年で16と17歳。自刃に至るきっかけも実際には城下が焼けていたのを、鶴ケ城が焼けていると勘違いし悲観をしたためらしい。1868年とのことだから、約140年前。そんなに古い話ではないような気がする。この話は遠くイタリアにまで伝わり、ローマから贈られた大きな碑が近くに佇んでいる。僕も若くしてこの世を去った命に、心から手を合わせた。

鶴ケ城天守閣


次いで、鶴ケ城(若松城)を訪ねた。こちらも城下の木々が見事に色づいている。銀杏とモミジの共演があまりにも美しい。石垣の向こうに白い天守閣が見えてきた。戦後に建て直されたものだが美しい。目を見張るような大きさではないが、とてもバランスが良く思える。天守閣に上った。会津若松の街を見渡す。街の周囲を色づいた山々が囲んでいる。決して大きな街ではないが、その歴史はあまりに深い。
天守閣を降りて、来た道と別の道を歩くと濠に出た。皇居の千鳥淵と似ている。幕府を守ろうとして敗れた会津。無血開城だった江戸城。結果は違えど、同じ時代の空気が今も息づいていることを感じた。

日が沈みかけ、空は濃いブルーへ変わっていった。クルマを返し、お礼をするともう日は沈んでいた。静かな街は、より静かになり磐越西線の車窓には漆黒の闇しか見えない。僕は、その黒いスクリーンに今日一日を映し出し、会津若松の街を記憶へと刻み付けていった。



※この記事は2009年12月01日現在の情報です

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