クルマで遠足

クルマに乗って、出かける気軽な旅の記録。

Vol.025

タイムズから行く、前橋小旅行

いつものようにタイムズを目指した。少し雲行きの怪しい東京から、北へ100数十キロ。前橋だ。前橋について知っているのは、せいぜい群馬県の県庁所在地といったことくらい。草津を始め、同じ群馬でも温泉地を目的地にしたことはあったが、ここ前橋はいつでも素通りだった。前橋に行ったことがなかった、知らないからこそ目指したのかもしれない。

カーナビに導かれるまま、たどり着いた「タイムズ前橋駅前」は駅前のケヤキ並木沿いにあった。ケヤキの背は10mほどもあり、その成長ぶりから、この道が古くからあることを伺わせる。歩道には、人物のブロンズ像がならび、とても瀟洒な街並みが続いている。
歩いた方が街の空気を感じられると思い、タイムズにクルマを置いて、ここからは少し歩いていくことにした。

ケヤキ並木を北へ歩くと広瀬川という利根川の支流にぶつかる。両岸には、桜の古木が枝を伸ばし、青い葉を茂らせている。このところの雨のせいなのか、しっとりと濡れた石畳に、豊かな水の流れが叙情をかきたててくれる。
ここで、少し変わった彫刻を見つけた。和服姿で立ったまま手を頬にあて、遠くを眺めている。近づけば「萩原朔太郎」と書いてある。言われてみると、いかにも文学者的なポーズ。見ているこちらが、少し恥ずかしくなる。萩原朔太郎といえば、詩集「月に吠える」で有名な詩人だ。もしかしたら、高校生の頃に文庫で買ったくらいのことはあるかもしれない。だけど、ちゃんと読んだ記憶は、正直言ってない。入館料100円ということもあり、彫刻のすぐ真後ろにある前橋文学館を訪ねてみた。

古ぼけた図書館のような館内を想像していたが、かなりモダンな空間だった。受付け裏には、グッズのTシャツや何やらが並べられ、およそ文学館らしくない。受付の方に勧められるがまま、まずはビデオ室で前橋と萩原朔太郎のゆかりを学んだ。明治19年(1886年)に生まれた彼は、55年の生涯のうち40年近くをここ前橋で過ごした。開業医の息子として生まれたため、かなり裕福な幼少時代、落第、退学を繰り返した青年期。常に詩を始めとする文学に深い興味を持っていたようだが、詩壇にデビューを果たしたのは27歳と遅咲きだった。文学史でも学んだ「月に吠える」も31歳の作品で、初版の発行部数もわずか500部。この後、徐々にその名は広く中央に知れ渡り、いつしか「僕は一躍して詩壇の花形役者になつてしまつた。」と高い評価を受けるようになる。しかし、だからと言って、浮かれた訳ではないさまようだった。

ビデオ室で、こんな詩が朗読された。
「廣瀬川」
廣瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川邉に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は眼にもとまらず

過ぎ去った日々に浮かんでいた幸福を懐かしみ、そして今の不遇を感じているようだ。もちろん、そのころと時代も何もかも違うが、とても共感できるような詩に思えた。今まで、文学史の中でしか知らなかった萩原朔太郎がぐっと身近に思えた。

文学館の後は、前橋の隆盛ぶりを今に伝える建築を見に行った。群馬県庁、前橋公園近くにある「臨江閣(りんこうかく)」だ。明治17年に迎賓館として造られた本館と茶室、そして明治42年に造られた別館は、恐ろしく大きい。まさに威風堂々といった佇まいだ。別館の間口はおそらく優に50メートルはあるだろう。さらに2階には、なんと150畳の大広間がある。今なら有り得なくもないかもしれないが、100年以上前の明治時代では、ちょっと他に比べるものがないほどの広さだったに違いない。ちなみに萩原朔太郎の結婚披露宴も、この大広間で行われたそうだ。

次いでは、敷島公園を訪ねた。前橋が誇る、緑のオアシスのようだ。サッカー場、野球場、陸上競技場などの大型施設に加えて、釣り糸を垂れる人も多い滋光池、ばら園が広がっている。そしてここにも萩原朔太郎の足跡があった。萩原家の土蔵と離れ座敷が公園の片隅に移築されている。「月に吠える」などもこの離れで書かれたそうだ。そして、直接触れることはできないが、遠い昔に亡くなった主を待つように、朔太郎自らがデザインしたモダンな机と椅子が離れに今も置かれていた。
ここで時刻は4時半。この記念館の門が、静かに閉められた。今日の旅もここで終わりのようだ。


今回のドライブコース=前橋へ


首都高~関越自動車道前橋IC
所要時間1.5時間

※この記事は2008年10月07日現在の情報です

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